民俗 商品
民俗とは、民間で伝えられている風習や風俗のことです。また、民俗学は民族学や文化人類学に近接する学問のひとつで、その国に住む人の日常生活文化の歴史を、主に民間伝承を中心に再構成しようとするものです。
具体的には、古くから伝えられてきた民話や風習、習慣、家屋など、有形無形を問わず民俗資料とされるものを研究し、その歴史や移り変わりを研究していきます。
また、民俗学では出自がわからないまま現代まで続いている風習について調べ、その発祥や原型を解明する役割も果たしています。
そのため民俗学によって、国や世界の大まかな歴史だけでなく、よりピンポイントの小さなコミュニティにおける歴史を知ることができるのです。
- 祖父に捧げられた宮本常一<最大の賛辞>は格別
- 『忘れられた日本人』では、日本の原風景とも言える農村漁村に生きた無名の人々が主人公です。山村の古老たちが村の変遷を語る「名倉談義」からは、村という生活共同体での日々の暮らしぶり、人間関係の濃密さ、道路建設により文物の往来から人的交流の仕方までが様変わりした事実を教えられます。
過酷な農作業の合い間での女性たちの絆の深さを若い頃の旅参りや家出の手伝いなどの挿話で紡いだ「女の世間」や、視力を失った元博労の物乞いが自らの牛追い人生と女性遍歴を独白調で語る「土佐源氏」は、大変面白く、楽しく読んだ後に、少しばかり物悲さに包まれます。
リュック担いで辺鄙な村々や離島にまでいそいそと調査旅行に出掛ける民俗学者の物好きさには呆れますが、こういう<エロ話>めいた秘話を聞き出す<至福の瞬間>に取り憑かれた哀れな人たちなんだと納得がいきました。いいえ、その瞬間に立ち会うことができたむしろ幸運な人たちと呼ぶべきなのでしょう。
対馬に移住した老漁師「梶田富五郎翁」の昔語りは、著者同郷(山口県)の大先輩に対する敬意と哀惜に満ち満ちています。更には、温和な百姓でありながら、真剣を抜いた武士二人と脇差一本で相対した逸話の持ち主=祖父宮本市五郎に対する著者の愛情の深さ、細やかさに、身贔屓を超えた格別なものを感じます。
亀やカニとも友だち同様に接するべく幼い孫を導いたこの祖父は、「納得のいかぬことをしてはならぬ」という信条を貫いた人物だったようです。「世間話はあまり持たぬ人だったが、その生涯がそのまま民話といっていいような人であった。」宮本常一最大の賛辞は、ライフワークの原点を育んだ最愛の人に捧げられています。
- 日本人の原点
- 戦後、日本文化の均一化が進み、一般的な社会規範に反するものはどんどん姿を消していった。今では、そのようなことがあったことさえ、どこか後ろめたいこととして、語られることも、ましてや、メディアで紹介されることも無い。しかしながら、本著では、著者の丹念なフィールドワークにより、それこそ「忘れられた日本人」の生き様が、活字として残されたことに大いに意義を感じる。
夜這いは平安貴族の専売特許かと思っていたが、語り部である農村部の老人たちの昔語りによると、かつて普通に行われており、今の世の中とは違って、金も余暇も少ない、若い男女の交際方法とされていたようである。大阪府太子町では明治の終わり頃まで、一年に一回聖徳太子廟会式(えしき)の夜は男女ともに誰と寝ても良く、「太子の一夜××」と言って、近隣から多くの男女が集まった…ということも出てくる。
その他、子売り、子譲り、山の民との関わり、芸人、盗人宿、盗賊が病に効くと言われて何人もの子供の生き肝を食う話など、アンダーグラウンド的な話も紹介されている。
人間の流動性はかなり少なかったと思いきや、諸国を奔放に旅して見聞を広めて戻ってきて、村の文化や産業振興に貢献する人が意外と多くいたようで、また、村人たちも貴重な意見として彼らの見聞を有難たがった。
昔の農村の人たちは、苦しい生活を耐え忍んで生涯を送ったイメージが強くあったが、この本を読んで、確かに生産性は低かったし、電気もガスもなかったが、そのような日々の生活の中にも自分たちの心の拠り所を持ち、強く活力に満ちた日本人の暮らしがあったことを改めて知った。
- アカデミックかはさておき
- 戦時中もフィールドワークを続けていたというのがすごい。
一般的な人類学の例にもれず、宮本常一も
観察者である自分が「エージェントから見られている」という視点は欠落しているものの、
彼らへの誠実さは十分に伝わってくる。
あとがきは結構泣ける。
- 再読すると改めて気づかされたところも多かったのは、もう古典だから
- 久々に読み返すと、以前とは違ったところに感動した。隠居している老人が仕事をしない日には食べないと答えたりする「対馬にて」や、百姓は古米や古々米を喰いつながなければ飢饉の年がしげなかったなんていう「名倉談義」あたりの残酷物語的な話はよく覚えていました。しかし、戦前でも所有地が比較的平均している部落の方が多いかったのではないか、というあたりは、読み落としていました。
《地主と小作の分化している村は面白がって皆調査するが、後者のような平凡な村はふりむく人がすくない。(中略)そういう村の村人の気風には山の中にあっても近代性が見られるのである》(p.61)というあたりはなるほどな、と。
宮本さんは、東京に首都が置かれて以来、民俗学的な研究も東日本が多かったので、意識的に西日本を中心に歩き回ったと書いていますが、確かに「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」とうたわれた山形県酒田市を中心とする地主・本間家みたいなのは東日本が多かったんでしょうかね。
前に読んだ時には土佐源氏や世間師などに驚愕したものですが、今は田中梅治翁のような篤農家の《自然ノ美ニ親シミツツ自分ノ土地ヲ耕シツツ、国民ノ大切ノ食料ヲ作ツテヤル、コンナ面白ク愉快ナ仕事ガ外ニ何ガアルカ》というよな言葉が心に染みます(pp.279-280)。
- 頭をなぐられたかのような一書
- 極めて地味だがこれほどに読ませる内容を持った本はまずない。本書で描かれた無名の日本人たちの生き生きとした姿とそこから立ち昇る生命力(生のエネルギー)には、とにかく圧倒させられる。現代の日本人が「忘れていた」ものを取り返させてくれる。
個人的には、何と云っても「土佐源氏」(これを読まずに何を読む)、「対馬にて」(歌合戦(歌垣)のエロス)そして「女の世間」(女の旅の豊饒さ)がベストの三編。

